今年(2025年)ベトナムに一か月間滞在して価値観が変わったことを3つ書きます。
流行っている価値観に従って生きることが幸せに繋がるとは限らない
個人で稼ぐ時代という言葉に象徴されるように現在では個人主義をベースとした価値観が蔓延している。会社や地域の行事など自分の手柄に繋がらないような共同体の活動は非効率だと揶揄されている。しかし、ベトナムで現地の人たちの生活を見て、こういった一見非効率なものが我々のこころの豊かさに繋がっているのだと感じた。
経済発展が著しいと言えど、平均年収が日本の1/10程と経済的にはまだまだ豊かではないベトナムを哀れむ人もいるかもしれない。しかし、平日の昼間から若者がストリートにテーブルと椅子を並べて酒を飲みながらチェスと談笑を楽しむ姿を見て、経済的な豊かさよりも共感を楽しむ生活こそ本来我々の幸せなのだろうと感じた。スマホに国旗のステッカーを張ったり、多くの人がベランダに国旗を飾ったりしていたことも踏まえて、共同体意識が強いのだと感じた。
確かに共同体の中では自分とは合わない人ともそれなり仲良くしなければいけないなど、苦痛を感じる時があるかもしれない。しかしながら、そういった苦痛を乗り越えてわかり合い、共感することが人間の本能的な幸せなのだろう。
日本人に国家観・宗教観は全くと言っていいほどない
多くの日本人は愛国心を持たないし、日本はダサい、愛国心なんてかったるいと思うだろう。また、宗教なんて意味ないし危ない、現代で信じている人いるの?といった感覚を持つだろう。しかしながらベトナムを含む諸外国を回り、こういった感覚は極めて日本人的であり、特にベトナムは日本と対極にあると感じた。
ベトナムでは、スマホに国旗のステッカーを張ったりベランダに国旗を飾るほど国を愛している人が大勢いた。中国への何百年もの隷属やフランス植民地、ベトナム戦争を経て勝ち取った独立が国家というものを強く意識させるのだろう。以前私は日本国旗の入ったキャップを被っていたところ同じ日本人にダサいと馬鹿にされたのだが、非常に対極的だと感じた。
また、ベトナムでは、タクシー運転手など、車に釈迦の像を置くほど仏教を信仰している人が多くいた。
戦前の日本人が強い愛国心を持ち、神社仏閣に足しげく通ったことを考えると、いかに戦後のGHQによるメディアや教育などの改革で元来の日本を悪とする考えが刷り込まれたか(左傾化が推し進められたか)を実感する。日本の歴史観を教育することは禁じられ、今では日本神話や近代の歴史すら知らない人が殆どとなった。
先進国は自分たちの正しさを押し付ける(パターナリズム)
私はベトナムの調理施設の衛生度を高めるというプロジェクトでベトナムに行った。もちろん、行く前はベトナムのためになる仕事だと信じて疑わなかった。しかし、現地で活動を終えるころには自分たちが正しいと考えていることを押し付けているだけなのかもしれない、と思うようになった。
ベトナムの調理施設を何件か訪問してみると、地面に野菜を置いて調理したり、洗浄後のまな板を綿棒でふき取ると黒ずんだりと(日本の衛生観念から見ると)不衛生な環境に驚いた。しかしながら、現地の人はそれできれいだと言い張るのだ。そんな姿を見て、その衛生レベルで現地の人がよいと考えているのであれば我々がそれを変える必要があるのか、我々の価値観を普遍的によいものと考えて押し付けているだけではないかと考えるようになった。たしかに、まな板などの微生物レベルを測ってみると日本よりはるかに汚れていたので、おなかを壊す確率は高いかもしれない。しかしながら、現地の人はその中でも生活できているのだし、きれいにしすぎることでアレルギーを患う可能性も高くなるかもしれない。我々の感覚できれいなことが彼らにとって必ずしも正しいわけではないのだ。
翻って、欧米の多くの人は日本を開国・近代化させたことを今でもよいことをしたと思っているだろう。果たして明治維新を通して西洋の価値観を取り入れた日本は幸せになったのだろうか。日本に開国させたタウンゼント・ハリス本人が江戸の日本を見て「この国には富者もいなければ貧者もいない。これが人の本当の幸せの姿だろう。」と言い、開国に疑問を抱いていたことを強調したい。